俳句的生活(長谷川 櫂)
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俳句的生活 (長谷川櫂、中公新書)
俳句的生活は、私にとっては、俳句の何たるかを教えてくれただけでなく、プロジェクトのなんたるかについて、蒙を啓いてくれた、記念碑的な一冊である。
俳句のコンセプトとは、成立するかしないかのギリギリまで言葉を減らすことによって、詩を成立させる、ということである。三十一文字から、さらに七七を削った五七五で、詩にする。ふつうに考えたら、そんなことは、不可能である。その不可能を可能たらしめたのが、俳句のもととなった、俳諧の精神である。
十七文字の散文では、意味を記述することは、不可能である。もちろん、十七文字の韻文でも、ほとんど不可能であるわけだがしかし、俳句という形式においては、それが成り立つ。それを成り立たせるためのコンセプトによって、俳句が生まれた、ともいえる。
俳句のコンセプトの中核は「切る」ということである。
切ることによって、生まれる距離、余韻。
俳句は、意味の提示・伝達が主眼にない。
風味の表現と共有にこそ、俳句の手柄がある。
まさにいま・このとき・目の前の、この状況において、本当に必要な少ない言葉を発する。
そのことにより、世間や世界、大げさにいえば、宇宙全体との共鳴・合一をはかろうというのが、その哲学の本懐である。
(もちろんこれは、俳句独自の哲学ではなく、日本仏教が脈々と鍛えてきた思想と表裏一体である。)
俳句は、言語的有限設計の極みである。資源が有限であるという状況的不利を、最大限有利に働かせる。
この哲学に向き合うとき、プロジェクト活動と、まったく同一であると思わざるを得ない。
凡庸なプロジェクト者は、とかく「カネがない、ヒトがいない、あれが足りないこれが足りない」と嘆く。
真に足りないのは、知恵である。勇気である。工夫である。
実は、散文において10万文字の言葉を費やしても、有限であることには変わりない。
有限の有限性について思い至らない未熟な人間は、無限のリソースを与えたとしても、何も生み出せない。
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そのことを考えた時、「俳句的生活」と対照をなすものとして手に取ってみたいのが、以下の一冊である。
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20週俳句入門(藤田湘子、角川ソフィア文庫)
本書のコンセプトは「型を学び、型を用いて実作を重ねれば、恥ずかしくない俳句を作れるようになる」である。
藤田の指南する型とは、例えば、以下のようなものである。
型1 (季語)や + 中七 + 名詞
型2 上五 + 中七や + (季語)
型3 上五 + 中七 + (季語)かな
型4 (季語) + 中七 + 下五けり
本書がよくできているのは、それぞれの型における名句を紹介し、門下生の作例もまた紹介し、それらを批評、添削することで、帰納的に、誰でもわかるように、凡庸な俳句とちゃんとできた俳句の違いを理解させる、という構成である。
非常によくできた、勉強になる一冊である。特に、実作において参考になる意見が豊富で、大変親切である。
キーワードの例を挙げると、以下のようなことが語られている。
季語の役割=季節感、連想力、安定感
古臭さ、常識、独善はご法度
配合は離れたもの、リズム重視
風格と品
遠近・大小による二物衝撃・配合
類想・類型に注意せよ
道徳観、倫理観、分別臭、理屈、低俗な擬人法、政治的主張は避けよ
これらの解説は、鑑賞の原則を言語化したものである。素人的な俳句が、なぜ素人っぽいのか、ということを理解するにあたって、実に的を射ている。
がしかし、私は、この本が前提とする世界観に、大いに苛立ちを覚える。俳句というものを、お稽古ごと、趣味的なもの、(いまはとうに廃れてしまったが)むかし「花嫁修業」と称されたようなものとして位置づけているのである。
なにが駄目なのか。学びのゴールが、よそ様に出して恥ずかしくない、というところで、とどまっているのが、駄目である。
恥ずかしくないことは、確かに、渡世するうえでの、必要条件に重なる部分はある。
しかし、生を全うするための、十分条件ではない。
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前者と後者は、俳句をとらえる前提が、根本から、異なっている。
前者にとっては、生きることの表裏一体として、俳句がある。
後者にとっては、生きる手段のひとつとして、俳句がある。
前者の態度は、社会と対峙し、己が全存在をかけて生きる価値を世に問う態度である。
後者の態度は、社会に順応し、個を殺すことで、とにかく死ななければよいという態度である。
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若干注釈するが、私は後者を否定したいわけではない。
生きるためには、死なないことも大事である。プロジェクトワークにおいても、このような「型の実践」を通じたトレーニング法があるといいかもしれない、と、思う。やはり、何にもわからない状態を抜け出すためには、型は便利なのだ。そして、型の扱いままならない人間が、なにかことを成そうとしても、現実的に言って、難しいのも事実である。
しかし、型には副作用がある。死の危険を、忘れさせる。死から目を背けたとき、生があいまいになるのもまた事実である。そして、常識界で社会的に死なないためには、己を殺さなければやってられない、という局面は、意外と多い。死なないために己を殺すくらいなら、生きるために執着を一刀両断するほうが、良いに決まってる。
問題は、型の世界に留まるな、ということだ。型の世界には独特の重量があり、それは危険である。
例えば、藤田は、「20週」のなかで、無季自由律は俳句ではない、と、断言する。それは、俳人として、致命的である。俳句の生まれた場所は、極めて反抗的で、ロックで、パンクな文脈だった。功成り名遂げて出自を隠したくなるのは、人間社会一般によく見られることだけど、俳人が俳句に対してそれをするのは、最も神聖ななにかを、汚してしまいかねない行為である。
俳句教室の先生としては、合格かもしれないが・・・あんた、なんで俳句をやってるんだ?と聞きたくなる。
生活の糧のためだとしたら、そんなものは、糞食らえである。
いや、まぁ、別に、そこまで言うほどのことではないかもしれないが・・・。
ただ、たとえばビジネス社会には「コンサル業」という業態があり、そこで、食うために嘘を売り歩く、唾棄すべき人間と出会うことが、ときどき、ある。「20週」的な世界観にふれると、どうしても、そうした文脈への苛立ちを、思い出してしまう。
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生きることに苦しさを感じない人間は、いない。
諸事なんでも思い通りになる人間など、いない。
苦しさに溺れないために、執着を、未練を、断ち切る。
切ることは、笑う、ということである。
俳諧のこころとは、この広い宇宙で出会えたことを、とも喜び、ともに笑う、ということである。
考えてみれば、それは、俳諧の専売特許ではない。あらゆる芸術もまたそうである。
ビジネスプロジェクトを通して生み出される人工物もまた、本当は、その例外ではない。
ただ、人間の未熟ゆえ、それが果たされず、悪縁が悪縁を呼ぶ地獄が、そこかしこに、ある。
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価値創造とは、そんな世間に対して、己の全存在を賭け、世に問う、ということである。